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アルティーリ千葉

ALTIRI CHIBA

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 高校時代に地元フロリダ州タンパで郡選抜に名を連ね、NCAAディビジョン1の強豪オハイオ州立大では、カンファレンスタイトルをかけたミシガン州立大とのビッグゲームで終盤に大活躍してチームを勝利に導き、NCAAトーナメントのファイナルフォー進出(全米4強入り)も果たした。

琉球ゴールデンキングスをbjリーグ最後の王座に導きファイナルMVPに輝く以前から、イバン・ラベネルはそんな輝きを放っていた。

 プロキャリアは日欧のクラブを行き来する年月が長かった。しかしアルティーリ千葉に所属する今は、「ここでチャンピオンシップを勝ち取りたい、何度もです!」と、これまでとは違う将来像を描いている。

 デカくていかつい。プレー中の姿は“ビースト(野獣)”のような印象かもしれない。しかしコート外での様子は異なり、「この外見でよく怖がられちゃう」のが残念だという。「ダイスケ(#6小林大祐)には“テディベア(熊のぬいぐるみ)”って呼ばれているくらいで…いいヤツなんですよ!」。
社交的で人懐こい本来の性格が、その笑顔から伝わってくる。

 ラベネルには、NCAAフットボールの全米タイトルを手にしたワイドレシーバーや、MLBに引き抜かれたベースボールプレーヤーのいとこがいる。しかも故郷のタンパで一番盛んなのはベースボール。バスケットボールはその次のフットボールに次ぐ3番手のスポーツだ。

優秀なアスリートを生んだ家系でラベネルがバスケットボールをプレーするきっかけとなったのは、周りの若者たちと違うことをやりたいな…という無邪気な思いを抱いていた頃に、父親がバスケットボールをプレーする機会を作ってくれたからだという。

「年上の人たちとやらせてもらったバスケが楽しくて、自分に向いているかなと思いました。僕は当時から大きかったので、小学生なのに中高生と一緒にプレーしたんですけど、それが楽しかったんです」

自宅のそばにある大学のコートに出かけると、いつも30人近くも猛者が集まっていた。
「最初の頃は年長の人たちに負けてばかりでした。(勝ち残りのルールでプレーするピックアップゲームなので)一度負けたら、次に順番が回ってくるまでに2時間待ち。もう負け続けるのに懲り懲りして、うまくなろうと頑張りました」。

その結果ラベネルは、ブランドン高校時代にタンパ市選抜チーム、ヒルズボロー郡選抜チームに名を連ね、フロリダ州記者協会の投票による全州代表選考でも候補に名を挙げてもらえるまでの実力を身につける。

そこまでの成功は、父親をはじめ「周囲の人に恵まれたから」とラベネルは謙遜しながら話す。そのキーマンの中にデイブ・ディッカーソンという人物がいた。

 高校時代に名声を得たラベネルは、NCAAディビジョン1のボストン・カレッジに進み、そこで2年間過ごした後オハイオ州立大(OSU)に転入という道筋をたどっている。その後のプロキャリアにつながる実績を残したのはOSUでの2年間だ。

この転入はボストン・カレッジでラベネルを勧誘したヘッドコーチの解任に伴う出来事で、必ずしも前向きではない状況で起こった。このとき苦境に陥ったラベネルをOSUに誘って救ったのが、同年OSUのコーチングスタッフに加わったばかりのディッカーソンだったのだ。

「デイブは僕が15歳の頃からの知り合いで、ボストン・カレッジを離れようと考えたときも、一番に連絡をくれました。彼が『自分のところに来るといい』と言ってくれたおかげで、僕はカレッジバスケの最高レベルを体験できました」。

ラベネルのディッカーソンに対する感謝の思いは深い。それはラべネルがOSUで成し遂げたことのいくつかを振り返れば理解できる。

OSUでのラベネルはチームの中心的存在ではなかった。しかし、後にNBAで5シーズンプレーした親友のジャレッド・サリンジャーをバックアップとして支える、非常に効果的な“サイドキック”だった。

 その役割で、NCAAトーナメントのファイナルフォー進出に貢献したのはOSUでの1年目(サリンジャーがプロ入りした後の翌年もエリートエイト入り)。
全米でも強豪がひしめくハイレベルなカンファレンスとして知られるビッグテンの王座をかけ、ミシガン州立大とアウェイで戦ったレギュラーシーズンフィナーレで15点差をひっくり返す大逆転勝利(72-70)の力となったのも同じ年だ。

この試合で8分間プレーしたラべネルは、後半攻守にキープレーを連発して7得点、2リバウンド、2アシストを記録。1点を争う終了間際の攻防では、ドレイモンド・グリーンとのオフェンスをきっちり止めるという大仕事もやってのけた。

「僕はあの試合で、ファウルトラブルになったジャレッドに代わって出場しました。ミシガン州立大とOSUは伝統的ライバルですが、僕には相性の良い相手だったんです」とラベネルは振り返る。

「終盤コーチがエースのジャレッドをコートに戻そうとした時、ジャレッド自身がコーチに『「イバンをこのままプレーさせてください!』」と言ってくれたんだそうです。親友の期待に応えられたあの試合は僕にとって大学時代最高の思い出です」

その翌年ラベネルはプロキャリアをヨーロッパでスタートさせ、プロ3年目の2015年秋に琉球ゴールデンキングスに加わる。そのシーズンにbjリーグ制覇に貢献して、ファイナルMVP獲得したことを知るファンは多いに違いない。

実はそのシーズンにチームメイトだったアンソニー・マクヘンリー(現信州ブレイブウォリアーズ)の姿勢が、ラベネルのキャリアの指針になっているという。彼が琉球入りした後チームカルチャーが変わり、どん底の状態から優勝して当然と考えるようになった過程を知っているからだ。

「“マック”は僕の手本。僕はそれと同じことをアルティーリ千葉でやりたいんです」

 プロデビューから8年間で8度移籍を経験し、ヨーロッパと日本それぞれで4クラブずつに籍を置いた過程で、それまでと異なるやり方や、違う人々と一緒にどのように過ごすかを学んだ。 元々「両親から『イバンは知らない人がいないよね』と言われるくらい誰とでも仲良くなれちゃう」というほど人づきあいが良い性格であったことが大きな助けにつないだキャリアだ。

しかしアルティーリ千葉ではレガシーを築きたい。相応の時間をかけて、これまでの過程で得たものを結実させる集大成の場にするのだ。

「千葉で2シーズン過ごして、一つの場所にとどまって同じ人と働くことでお互いをより深く知ることができるし、気持ちもわかり合えるんだなと感じています。僕はバスケットボールでできるすべてをやり終えるまで、ここにいたいと思っていますよ」

チャンピオンシップを何度も獲得して、ブラックネイビーのユニフォームでキャリアを終える。
そんな力強い意気込みを語るどでかいテディベア。

「“本当は”僕は怖くないんですよ。“本当は”いいやつなんですからね!!」と笑いながら何度も強調した。
アルティーリ千葉のファンなら、もうそれはわかっているだろうけれど…。