岡田優介が小中学生だった頃は、スラムダンクが連載中で大人気だった時期に重なる。
バスケットボールとの出会いは、「よくあるパターンでスラムダンクが流行っていた、かつ、二つ年上の兄が先にバスケを始めていたので、大きく影響したのはその二つ」。しかし「よくある」のはそこまでだ。
小学生時代、遊びの形でしかバスケットボールをしていなかった岡田は、新宿区立牛込二中でバスケットボール部に入ったが、競技経験があるチームメイトに対抗すべく、近隣の体育館で大人たちと対戦するピックアップゲームの世界に身を投じるのだ。
自分より年長でレベルも高い相手とプレーする中で岡田は自信をつけ、日本代表入りとトップリーグ入りを心に決める。鍛錬が実り、東京都選抜としてジュニアオールスターの舞台へ。名だたる高校から誘いを受け、全候補校の練習に参加した上で、関東では最も厳しいと言われた土浦日本大学高等学校を選ぶ。
土浦日大では全国大会上位進出の原動力となり、アンダーカテゴリーの日本代表入り。その後進んだ青山学院大でも、インカレ準優勝に優秀選手賞受賞と実績を残していった。2007年以降はトップリーグ、B1・B2のプロクラブで14シーズンのキャリアを積むとともに、日本代表でも活躍している。
その岡田が、B3からのライジングストーリーを描くアルティーリ千葉に、創設時のメンバーとして加わった。上のリーグで十分できると言われていた。しかしここで自分は必要とされる存在だと強く感じた。「年齢的にはキャリアの終盤戦。『君にきてほしい』といっていただいたことが移籍の決定打でした。結果を求められることにやりがいを感じました」と岡田は移籍決断当時の心境を説明する。
持ち味は頭脳的なプレーメイクと正確なロングレンジシューティング。負けん気の強さもプロらしい。昨シーズンはチームトップの3P成功率41.9%でB2昇格に大きく貢献し、きっちり結果を残している。
こうした岡田のキャリアの背景には、バスケットボールを始めた当時の周辺の環境が強く影響している。岡田が生まれ育った東京都新宿区のバスケットボール事情には、ほかの地域にはあまりない特徴があるのだ。
そこには大人から子どもまでが同じコートでプレーするピックアップゲームのカルチャーがあり、なおかつ海外からやってきたビジネスマンやハイレベルなタレントが混ざるという、成長意欲旺盛な若者にうってつけの環境があった。例えば当時のトップリーグだったJBLに、ある日自分が通うコートでプレーしていたアメリカ人が出場していた…と言ったことさえ起こるのだ。
岡田が足しげく通った体育館では、いつも4対4のピックアップゲームが行われていた。何となくレベル別に、いくつかのハーフコートゲームが進行している。「外国から来た人たちがやっているレベルの高いコートを僕らは“メジャーリーグ”と呼んでいて、仲間と一緒に体育館に入っても、『俺、ちょっとメジャーで修行してくるから』と伝えてそこに挑戦しに行くんです。力があれば中学生でも入れてもらえるんですよ」
勝ったチームは次のゲームに残れるが、負けたら別のチームと交代。次に回ってくるまで何試合も待たなければならない。プレーしたければ、相手がJBLプレーヤーだろうが強豪大学出身だろうが、中学生の岡田も勝つしかない。「もともとハングリー精神が旺盛だった」とは言うものの、この環境が岡田の内面をさらに強くしたに違いない。「9時から21時までそこにいました」と岡田はあっさりと言ってのける。つまり午前、午後、夜間の体育館開放のすべてに参加していたということだ。
その頃からシューテイングガードで勝負すると決めていた。判断の理由は、日本代表入りという目標だった。さして大きくもない自分が、“メジャーリーグ”のピックアップゲームで通用していることを客観的に判断したのだ。「中学校では一番デカかったので4番か5番だったんです。でも、プロだ日本代表だとなると小さい方だろうなとわかっていたので、スリーポイントシュートの練習をずっとしていたんですよ」
だからと言って、日本代表まで簡単に上り詰めることができるわけではないだろう。しかし岡田はユニークなアプローチでそれを実現する。「日本一の高校生になることと日本代表になることの二つを、『自分新聞』に書いたんです。よくありますよね、自分の夢を描きなさいみたいな。そこに二つの目標を書いていました」
本格的にバスケットボールを始めたのとほぼ同時に大きな夢を言葉として書き出し、心に刻んだことで、岡田は本気でその夢を目指し続ける時間が、そうではない子どもたちよりも自然と長くなった。スラムダンクのストーリーも岡田を後押ししたという。「漫画の影響は大きいと思うんですよね。安西先生が『日本一の高校生になりなさい』と言うじゃないですか。僕もそうなるんだと心に決めていました(笑)」
そんな思いで大人たちとのピックアップゲームと部活動に取り組んだ結果、ジュニアオールスターに出場したときにも「正直誰にも負けないと思いました」というのが率直な感想だった。「ピックアップゲームでうまい人たちとやっていましたし、誰よりもたくさんプレーしていると思っていました。ミニバスで週1-2回練習している子たちに、365日これだけやっている僕が負けるわけはないと自信満々だったんです」
結果としては全国3位。勲章を手にするとともに、「全国にはこんなにうまいヤツがいるんだな」という出会いや、部活とは異なる指導を受けることで得られる新たな発見もあった。様々な刺激を受けたこの大会は、岡田にとってトップレベルで十分やっていけることを確認した機会であり、転機にもなったという。
その当時の回想を聞けば、自分を信じられることが岡田にとって大きなアドバンテージだったことも感じられる。「ゴールを決めてそこに向かってやり抜く信念の強さはあると思います」というのが自己分析。「自分の価値観として正しいと思ったことに関しては、それを信じられます。筋が通らないことが嫌なんですよね」
土浦日大への進路決定の過程にも、アルティーリ千葉入りを決める決断にも、そんな芯の強さが影響した。自分にとって最高の環境を、信念をもって求めたからこそ、誘いがあった東京都外の強豪校の練習にひととおりすべて参加し、誘いも関係性もなかった土浦日大には知り合い伝いに自ら連絡を入れ、練習に参加させてもらった上で入学にこぎつけられたのだ。
アルティーリ千葉がクラブを立ち上げる際、「自分たちが本気である」ということを対外的にも内部的にも明確にする必要があった。そこで挙がった候補の一人が岡田ということになる。「ファンの皆さんにとっても、アルティーリ千葉がこれからさらにすごくなるんだろうなという期待が持てるようなメンバーでなければいけないところに、最初のメンバーに選んでもらったということが本当にうれしい」。こんな言葉から、一本筋の通ったプロの意識が伝わってくる。