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アルティーリ千葉

ALTIRI CHIBA

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小学校に上がる前、7つ上の姉が通っていたミニバスチームに「一人でお留守番できないよね」ということで連れられていったことがきっかけで始めたバスケットボール。杉本 慶はその後、小中高大のそれぞれで全国大会の舞台を踏み、それぞれで異なる学びを得て、現在のプロキャリアにたどり着いた。

バスケットボールで生きていこうという思いは中学生のころに芽生えた。「俺はもうバスケをやっていかないと進学や就職ができないなと。薄々そう思ったんですよね」と冗談半分に明かす。

自分自身の性格を、「誰かがいじられたりいじったりを見て横で笑っている人ですね」と分析する。第三者的な視点は、コート上を見渡し得点機を突くプレーぶりにも表れているのかもしれない。自身の一発ギャグで笑いをとることこそ稀でも、仲間ありきでその場を和ませる。何かを成し遂げるのは「自分一人の力ではない」ということ。杉本のそんな性格は、アルティーリ千葉のバスケットボールに命を吹き込む大事な要素になっている。

滋賀県にある近江八幡市立安土小学校の4年生になり正式にミニバスのメンバーになった杉本は、県で1-2位を争うチームで基礎を叩き込まれ、全国の舞台を踏む。「ドリブルのコネコネとか一切なし」のチームは、かっこよく派手なスタイルではない。地道にパスやディフェンスの基礎に取り組み、走る。

現在3x3のプロとして活躍している兄(ORANGE ARROWS.EXE所属 杉本 陵)とも一緒だった。「兄が頑張っているなと思うと、俺も頑張ろうかなという気持ちに、まあ“少し”はなります」と杉本は答えた。「“少し”です。先に言っておきます。“スコ~シ…”はなります(笑)」。ちゃめっ気たっぷりに兄を落とすところを見ると、兄弟仲も良さそうだ。

その後進んだ安土中学校も、やはり滋賀県下の強豪。杉本は2年生だった2006年の高知全中に、控えガードとして出場した。本丸との準々決勝で2度の延長の末敗れたものの、全国の8強入りを果たしたチームで、杉本は決勝トーナメント初戦で出場機会を得、2得点を記録している。

しかし印象に残っているのは試合やプレー自体よりも環境面だという。
「おっきい会場でやるのは場数が必要かなと。やっぱりあの大きさは…。小学生用コートが5-6面取れていたイメージでした。全中では台風の影響で会場がすごく滑ったんです。コートがつるつるで、こういう中でも試合をすることがあるのかと。ミニバスの全国大会では大きさに慣れて、全中では自然の環境とか、さらにもう少し大人になった感覚があります」

そんな印象が強くなった理由は、当時から他県のチームやその後進学する光泉高校(現光泉カトリック高校)にチームで練習に行くなど幅広い交流があったためだ。
「緊張するのはやっぱり高校生とやる方で、次元が違っていました」。様々な刺激とハイレベルな指導を受ける中、バスケットボールが自分にとって運命の存在だと捉え始めたのも安土中時代だ。
「中学校ぐらいのときに、もうバスケをやっていかないと進学や就職ができないなと、薄々そう思ったんですよね」と杉本は冗談半分に話している。

こうして人生の方向性をバスケットボールに見出した杉本は、中学校時代から交流があった光泉に進み、「バスケ漬け」の日々を送ることになる。自宅から通った3年間は「毎日がバスケでしんどかった」の一言だ。
努力が報われ、インターハイもウインターカップも3年間連続出場。3年生のときにはゆめ半島千葉国体で光泉主体の県選抜チームを3位に導いた。
それでも杉本の実感は「うれしかったことよりも毎日の練習のレベルが高くて、同じポジションの選手と削り合いの日々」というものだ。

小中学校時代に基礎を積んだ杉本に、光泉は頭脳面を鍛える場を提供した。「みんなが良いポジショニングでパスを回し、スクリーンをかけてフリーを作る。できるだけゴール下で点数を稼ぐ」のがプレースタイル。
厳しい規律の下、フォーメーションとルールの中でどのように動けば得点につながるか。オンボールでもオフボールでも状況を見て対応していくことが求められた。
「今の自分があるのは間違いなく高校のおかげだというのは非常に強く思っています」。プロの土台は光泉時代に固まった。

その後中京大学に進んだ杉本は、幅を広げた。「中京はあまりルールがなくて、5人の個性や長所を生かそうというバスケでした。1対1も多かったですね」。
ルールが徹底されていた光泉のスタイルに慣れていた杉本には新しい。ピック&ロールを得意とする杉本はオフェンスの起点。センターでも190cmに届かない小柄なチームで、一度インサイドを攻めてからアウトサイドのシューターや1対1が得意なチームメイトにさばいて得点を狙った。

「はじめ僕はちょっと戸惑いました。どう動いていいのか、どう攻めるんだ…みたいな。高校時代に学んだものをどう使っていくか。大学時代に学んだのはクリエイティビティーということになります。オフボールでも、自分がおとりで動いたらここにスペースが生まれるなというようなことを、約束事ではなく自分の考えでやっていくんです」

指示待ちでは形にはならない。自分で考え、なおかつ仲間とコミュニケーションを取ってお互いに理解や納得することが必要だ。
「俺がこうしたいからお前はこう動けというのではなく、5人がボールをシェアして攻めるという発想が身についたかなと。自由にやるとこういう攻め方があるんだなということを学びました」。
独りよがりでは成功できないことを肌感覚で学びながら、杉本はチームメイトから「不動のエース」と慕われる存在にもなっていた。個の力を和の中で生かすことで積み重ねた中京での4年間も、杉本にとって大きな意味があったに違いない。

社会に出るまでのそれぞれの段階でその時々に必要だった栄養を吸収し、杉本は2014年にファイティングイーグルス名古屋の前身だった豊田通商に入団。会社員とバスケットボールプレーヤーの立場を並行する生活から、やがてプロの道筋が自然と定まった。

一つかなわなかったのがB1入りだ。そこにアルティーリ千葉入りの話が舞い込んだ。
「俺の実力はどこまで通じるのかという思いが強くなっていたところに、しっかりしたB1昇格のビジョンと毎年のプランやメンバーの説明を聞いて、ここだと強く思えました。これはB1で自分がどれだけやれるかを知るための移籍です」と杉本は明言する。そのためにチームメイトとどのように協力すべきか、杉本は十分学んできた。

今シーズンB1昇格を果たせば、杉本は31歳で夢をかなえることになる。自分のピークを過ぎる前にどこまでいけるか試したい。そんな思いも語った。
しかし現代バスケットボールのプレーメイカーでの30歳はまだまだピークではないだろう。40歳まで現役だったジェイソン・キッドのような人もいますよねと言葉をかけると、「すごいプレッシャー!」と人懐っこい笑顔が返ってきた。

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