MENU

アルティーリ千葉

ALTIRI CHIBA

MENU

カンザス州の田舎町トピカに生まれたレオ・ライオンズは、つい獅子座と勘違いしてしまいそうな名前だが双子座で、「性格も双子座的」と自身の個性を説明する。確かに、落ち着きのある控えめな性格でありながら、華やかな舞台で躍動するのに必要な大胆さを持ち合わせている。また、実はアスリートとは別にファッションデザイナーとしての顔も持っているあたり、確かに双子座らしいと言えそうだ。

バスケットボールに初めて触れたのは4歳のとき。「保育園の休み時間にやることと言えばそれしかなかった」という出会いだった。成長するにつれプレーグラウンドでのピックアップゲームで腕を磨くようになったり、バスケットボールのビデオゲームで遊んだりといった経験を通じ、ライオンズはこの競技にのめり込んでいった。

ミズーリ大時代には全米の8強入り。2009年以降は、憧れだったアーヴィン“マジック”ジョンソンが乗り移ったかのような、デカくて走れて魅せられるプレーヤーとしてプロキャリアを積み、現在アルティーリ千葉で2シーズン目を迎えている。

ライオンズが生まれた1987年当時は、マジックらが所属していたロサンゼルス・レイカーズがNBAで連覇を果たした時期で、バスケットボールを始めた4歳の年に当たる1991年は、マジックが病気により引退するという衝撃的な出来事と重なる。翌年のオールスターゲームでは、マジックが一時的な復帰を果たしMVP獲得というNBA史上最も輝かしい場面の一つも生まれた。

「小さい頃からマジックが僕のインスピレーションです。ボールの扱い方や彼独特の楽しいプレーぶりに惹かれて、いつもあんなふうにプレーしたいと思って頑張ってきたし、今でもあのスタイルを思い浮かべてプレーすることがあります」

ライオンズのマジックに対する憧れは、ブラックネイビーのユニフォームを着て活躍する現在の姿に投影されている。「僕のパスは彼を真似たところから始まっています。長身と視野の広さを生かすコンボプレーヤーという点は同じですしね」

ライオンズは故郷のトピカを「どちらかといえばフットボールの方が盛んなところ」と説明し、「僕がバスケットボールをやるようになったのはちょっとした驚き」と話す。

しかしクルマで40分ほど離れたローレンス(カンザス州)という街には、伝統的強豪として知られるカンザス大があり、1988年に全米制覇を果たしているので、ライオンズの幼少期における周辺のバスケットボール熱は相当高かったのではないだろうか。

ゆったりした農村で勤勉な労働者世帯が多く、キラキラした派手さはないが、家族を大切にする人々が暮らす街。そんなトピカで家族の愛情を受けて育てられたライオンズは、自身も家族を大切にする優しい人柄だ。

ミズーリ大時代のプロフィールには、母ジョージアと話すことを試合前のルーティンに挙げるほど。今でも「僕は本当に母親っ子で、母の助けがあってバスケットボールができたし、外の世界に出ていけました」というほど、感謝の念が強い。

部屋で無駄な時間を過ごしていると、母ジョージアから「外に行ってバスケしてらっしゃい」と声がかかる。ちなみにバスケットボールにのめり込む要因の一つになったビデオゲームも、祖母と母親からのプレゼントだという。日中長く仕事をしていた母親は、ライオンズがバスケットボールに集中できる環境をごく自然に与えていた。

才能を開花させたライオンズは、強豪のミズーリ大に進む。最終学年だった2008-09シーズンには、平均14.6得点、6.1リバウンド、2.0アシスト、3P成功率38.5%のアベレージで、チームをNCAAトーナメントのエリートエイト(準々決勝)に導く。同大会でチャンピオンになったコネチカット大が相手だったこの試合で、ライオンズはチームハイに並ぶ13得点を挙げた。

しかし、輝かしい活躍があったにもかかわらず、大学時代はライオンズにとって試練の時期だった。「自分に合ったポジションでプレーさせてもらえなかったので、厳しい経験だったし教訓になっています」とライオンズは当時を振り返る。「最適ではないポジションに適応して、自分が望む状況でなくても良いチームメイトであることが求められました」

マジックにあこがれたライオンズだけに持ち味の一つはプレーメイクだが、当時のポジションはフォワードで、それを生かしきれない歯がゆさもあったようだ。しかし、「完全には納得できない役割を請け負った中でのエリートエイト達成で、物事がうまく進まなくても仲間を信じてチームとして頑張れば勝てることを学びました」とライオンズは語る。その時期に身につけた忍耐や適応力が、間違いなくその後のプロキャリアを支える力になった。

ヨーロッパで始まったプロキャリアは、2010年代の半ば以降アジアへと軸足が変わり、2017年からは日本でプレーしている。韓国のクラブに所属していたときにプレシーズンゲームで初来日し、いくつかのチームと対戦したことで、日本のバスケットボールを知るようになり、魅力を感じた。

アルティーリ千葉への移籍は、「偉大なる歴史の始まり」というビジョンに加え、クラブの人々の魅力にも惹かれ、力になりたいと即決。かつて千葉ジェッツにも在籍したライオンズにとって、千葉での2度目のキャリアがスタートした。

ファンからの熱烈な声援や愛情を感じる中で、クラブとしての取り組みに誇りを感じている。「革新的で、誰もが同じことをして同じところにいようとしないところがいいですね。リスクを承知で新しいことに挑戦しているので、これはBリーグを進化させる力になると思います」。ブラックネイビーの世界観の中で個々のプレーヤーを押し出していく手法や、その声を広く発信する取り組みを、選手の立場からも楽しんでいる。

アメリカでは不吉な番号と言われる現在の背番号#13は、苦労人のライオンズがあえて選んだ番号だ。「#13は昔から好きな番号。故障からの復帰過程でもあり、多くのプレーヤーが諦めるようなケガを不運と捉えるのではなく、そこから立ち直って生まれ変われるということをこの番号で知らしめたい」という言葉が心の強さを感じさせる。

勤勉な母親の下、謙虚なトピカの街で育まれた芯の強さを土台に、万能なプレーを可能にするスキルとサイズを備えたライオンズの存在感は、冒頭にも記したとおり双子座生まれらしい特徴がある。コンボプレーヤーであることもそれに当てはまるだろう。

ライオンズのもう一つの顔でもあるファッションデザイナーとしてのキャリアに関しては、現役引退後に注力していきたい思いがあり、「引退後もファッションの側面から日本の文化の中で生きていくつもり」と話している。これからも彼が歩むキャリアを通じで、様々な楽しみを届けてくれそうだ。

RELATED MEDIA