茨城県つくば市出身の大崎裕太だが、地元の上郷小学校、豊里中学校を経て柏市立高校に進んだ頃から千葉県とは縁がある。
小学校を卒業する頃、身長150cmを少し超えたばかりの小柄な少年だった大崎は、チームでは一番背が高かった。「ミニバス時代の仲間と進んだ小柄な豊里中で、勝てるとは思わなかった」という。
しかしその分3Pショットの腕を磨き、コーチの厳しい指導の下メンタル面も鍛えられた大崎は、豊里中をシューターとして茨城県の王座に導くことができた。「根性では誰にも負けません」と話すほど、当時育んだしぶとさには自信がある。仲間との絆の大切さもこの頃学んだ。
その後柏市立柏高校時代には全国の舞台を踏み、同年代の渡邊雄太(NBAブルックリン・ネッツ)らとともにU18日本代表に名を連ねた。実業団チームでの社会人生活や、信州ブレイブウォリアーズをB2からB1に昇格させる力となった経験もある。アルティーリ千葉がぜひともほしかったタレントだ。
バスケットボールを始めたのは、先にやっていた兄の影響だ。「母が兄を迎えにいくときに僕もついていっていたんです。そこで兄の練習が終わるまでシュートして遊んだのが始まりでした」。父親がコーチだったこともあり、そのうちに流れで自己紹介することに。その後、ごく自然に入部した。
母はスポーツと無縁。父はバスケットボール経験者でNBA好きではあったが、本格的にプレーしたのは中学校時代だけだという。
近隣にはバスケットボールをプレーする子どもが少なく、ほかの地域の子どもたちと合同でやっとチームが作れた。しかし小柄なチームで、大きな子たちがゴール下を固める相手に勝ちきれず悔しい思いをすることが多かったという。
理想的な環境とは言えない。「豊里中では、本来なら違う学校にいくはずだった仲間に、大変ですけど遠くから通ってもらって同期6人をそろえました」。そうでなければ部活が成り立たない。そんな状況だった。
にもかかわらず、その同期6人の中から大崎と會田圭佑(青森ワッツ)という二人のBリーガーが生まれている。會田がプレーメイカーを務め大崎がシューターの役割を担うバックコート・デュオが伸び伸びプレーした豊里中は、県大会1位で関東大会出場を果たした。
入学時点では勝てっこないと思っていた自分たちが躍進を遂げた過程は、大崎にとってかけがえのない財産だ。大崎と會田だけではなく、6人の仲間がそろって初めて実現可能だったこの勝利は仲間との友情や絆の証しとも言える。
「小学校時代から違う地域の子たちが集まって一緒にプレーしていた僕たちには、まとまりがありました。コーチも厳しかったので、中学校時代に走力や厳しいトレーニングにも耐える忍耐力、頑張る気持ちが身につきました」。
仲間と一緒に苦しいときこそ踏ん張ることで道が開ける。この教訓は、その後のキャリアでも大崎の力になる。
例えば市立柏高2年生時の2012年3月に参加したU18トップエンデバーの活動で、中学校時代までに培った粘りが生きた。初日を締めくくる最後の体力テストでは42人の参加者中トップの成績。「最終選考の一つ前ですね。確かにあの体力テストでは一番走れました。とにかく負けたくなくて」と大崎は振り返る。
「根性は間違いなく中学校時代についたものです。例えばディフェンスでは、自分がきついときほど相手もきつい。だからしつこく追いかけてどちらが根負けするかみたいな意識でやっています。そこに当時の気持ちが積み重なって生きていると思います」
高校最後の夏には、インターハイのベスト16入りとU18日本代表入りという誇らしい出来事が待っていた。渡邊雄太や馬場雄大らと出場した第22回FIBAアジア U-18バスケットボール選手権ではベスト4入りを果たし、個人としても9試合すべてに出場機会を得て、平均7.8得点、0.9リバウンド、1.6アシスト、0.8スティールのアベレージを残している。少年だった大崎が仲間との絆と根性の成果として手にした勲章だ。
その後進んだ青山学院大学での4年間は望むような出場機会を得られず、大崎にとってはじれったい日々だったに違いない。しかしその間も、幼馴染の仲間たちの存在が励みとなった。
「大学に入る前に何年も会っていなかった中学校時代の友だちと会ったとき、『代表入りしたんだってな。結構みんな知ってる。応援してる』と言ってくれたんです。『同級生で大崎のような仲間がいるのはうれしい。自慢だよ!』と。うれしかったですね。あの言葉がプロを目指すきっかけにもなりました。僕の気持ちを強くしてくれた言葉です」
しかし、大学時代に実戦で際立った実績を残すことができなかった大崎には、卒業前にどのクラブからも声がかからなかった。「プロにはいきたかったですが…」という反面、それまでバスケットボールを好きなだけさせてくれた家族に、社会に出てまで心配をかける気にもなれない。一般企業への就職活動にも時期がある。
悩んだ挙句、「親孝行のつもりで安定収入とバスケが両立できる実業団」に進路を絞り、新生紙パルプ商事株式会社への入社という結果にたどり着いた。ただ、決断とともに心のどこかに後悔も残っていたのが本音だ。「入社を決めた瞬間にも、プロになりたいという気持ちがどこかにありました」と大崎は当時の心持ちを話した。
社会人生活を送っていたある日、大学時代の伝手で、当時B2リーグに所属していた信州ブレイブウォリアーズのユースアカデミー関係者との縁が持ち上がる。周囲の支援と会社の理解の下、突如として大崎にプロの道が開けた。その後2018-19シーズンからの4シーズンを信州で過ごし、B1昇格の力となったが、この道筋も若かりし日に培った粘り強さの賜物のように思える。
中堅として若手とベテランやコーチ陣の橋渡し役も望まれるようになった昨シーズン、そうした立場以上にもっともっとコート上で輝きたい、これまでと違う環境を経験したいという意欲が自分の中で膨らんでいることに気づいた。
そこに舞い込んだのがアルティーリ千葉からのオファーだ。再びB2からのスタートにはなるが、自らを必要としてくれる誘いの声に応える決断をした。
「僕はものすごく悩む質なんですけど、これまでの選択はすべて正しかったと思っているんです。今回もうまくいく。そんな自分の感覚を大事にしました。ここに来たい、ベテランやB1で活躍した選手もいて、一緒にやりたいという気持ちが大きかったですね」
コート上でもっともっと輝く大崎の姿を見たい。本人と同じそんな思いは、故郷の仲間たちはもちろん、いまや千葉でも多くの人々が共有できているに違いない。