「家族が見ている試合はいいプレーができるんですよ。見ていてください」。
母親の来日直後だった12月下旬、こう話していたコービー・パラスは、その週末に行われた香川ファイブアローズ戦のGAME1で6本の3Pショットを成功させて18得点(98-66で勝利)、GAME2も4本の3Pショット成功で14得点(100-66)と、言葉どおりの大活躍でアルティーリ千葉の連勝に貢献してみせた。
フィリピンのセレブな家庭に生まれたパラスは、自身もインスタグラムのフォロワーが82.3万人というインフルエンサーだ。モデルのような容姿や両腕のタトゥー、バスケットボール界の偉人コービー・ブライアントにちなんだ名前などから派手な印象もあるかもしれない。
しかし話してみると素朴で家族思い。意外というと怒られるかもしれないが、温もりのある人柄だ。特にバスケットボールに関しては、ストイックさを感じさせるほど真面目なことを話す。
「久しぶりにプレーする喜びを感じています」という今シーズン、その喜びが千葉の街を明るく照らしている。
パラスは生まれ故郷のケソンの街を、「いろんなものが混ざったような場所で、きれいなレストランや住宅もあるし、ストリートで暮らしている人もいます」と説明する。
その中でパラスの家庭は、経済的には間違いなく恵まれた環境にあった。パラス自身もそれを自覚しているが、逆に貧しい人々の存在とハングリーさを誇りに思いながら育ったような側面がある。
父ベンジー・パラスはフィリピンのバスケットボール界のスターで、芸能界でも活躍した人物だ。母ジャッキー・フォスターは人気女優。兄アンドレも現在は芸能界に身を置いている。コービー自身も幼少期に俳優業をしたことがあり、モデルとして活躍した経歴もある。
ただ、その世界はあまり魅力的に映らなかった。「芸能の世界は楽しめませんでした。両親も兄もまだ芸能界にいますが、僕は好きになれなくて」。それはバスケットボールの世界に入った理由の一つでもあるという。
少年だったパラスが惹かれたのは、守っては小柄でも大きな相手にしぶとく食らいつき、攻めては一瞬の隙を突いてシュートを狙うフィリピンのしたたかなボーラーたちの姿の方だった。
もちろん、幼かったパラスとバスケットボールを結びつけた最大の要因は父の存在に他ならない。バスケットボールを少し知っている人ならすぐにピンとくる特別な名前は、父がコービー・ブライアントのルーキーシーズンに本人と接点を持ったことがきっかけで付けられた。
「現役だった父が1996年にヒザを壊した際に、最高のトレーニング施設でリハビリを受けられるようにしたいとチームに相談したら、ロサンゼルスに行かせてくれたんです。そのとき治療を受けたのがレイカーズの施設で、ちょうどルーキーだったコービー・ブライアントがワークアウトをしているのを見る機会もあり、『これは将来すごいプレーヤーになるに違いない』と思ったそうです」。その翌年生まれた次男に、コービーと名付けたのだ。
バスケットボールはフィリピンでは国技。どこに行ってもそこらにコートとゴールがある。そこで展開されるピックアップゲームは、フィリピン庶民のハングリーさの象徴だ。
「フィリピンの人々はほとんど『やりすぎ』と言っていいほどフィジカルなプレーをします。小柄な人が多いですが、あの激しさに惑わされないようにしないと対抗できません。それがフィリピンのバスケットボールです。みんな大好きだから、それぞれが何とかして戦う道を見出そうとしぶとく食い下がるのが特徴で、型にはまらずそれぞれのプレースタイルを持っているんですよね」とパラスは誇らしげに話す。
憧れのプレーヤーというのは、外の世界には特別にいなかった。それだけ父の存在が大きかったからだ。フィリピンバスケットボール協会の殿堂入りを果たし、同協会が選ぶ歴代最高の25人にも選ばれた父の背中は大きかった。
「僕はいつも父を見習っていました。父の影響で始めたバスケットボールですから。子どもの頃は良く父の試合を見に行ったものです」
その背中を追いかけたパラスは、2013年以降5人制、3人制の両方でアンダーカテゴリーのフィリピン代表として活躍。フィリピン国内のラ・サール・グリーンヒルズ高からアメリカに渡り、ロサンゼルスの強豪キャシードラル高、ミドルブルックス・アカデミー高を経てNCAAディビジョン1のクレイトン大で1年間プレーしている。
その後、NBAで活躍した経歴を持つレジー・セウスがヘッドコーチを務めたカリフォルニア州大ノースリッジ校に転校したが、この1年間はNCAAの転校生に関する規則によりプレーできなかった。
しかもその間にセウスHCが大学を離れチームの方向性が変わったことで、結局パラスは同大でプレーすることなくフィリピンに帰国し、学生生活をフィリピン大で終えている。
プロキャリアは日本でスタートさせた。来日を決めた理由の一つは、親友のサーディ・ラベナ(三遠ネオフェニックス)の存在だ。
「彼が日本でデビューしたシーズンに電話でやりとりをしたときに、『日本はいいぞ。ショッピングもたくさんできるから来たらいいのに』というんです。今でもラベナとは時間さえ合わせられれば会うこともあるくらいで、彼の誘いがなかったら僕は日本に来ていなかったかもしれません」と話すほど、同郷の仲間の存在は大きな力になっている。
アルティーリ千葉入りの話は、新潟アルビレックスBBにいた昨シーズンが終わる前に舞い込んだ。オープンに何でも話せるフロントの雰囲気、いち早く声をかけてきた期待感の強さ、メンバーの顔触れなど惹かれる理由がいくつもあり、移籍の判断は難しくはなかった。
今、千葉市での生活はとても気に入っている。「たぶんバスケットボールを始めてから一番幸せじゃないかと思います。ぜひこんな環境の良さを生かして活躍したいですね」と意欲も高い。
チームに加わってからの3-4ヵ月間に体調不良や故障などいくつもの困難が降りかかったが、「千葉は街がきれいだし、東京にも近くて気晴らしもしやすいです」と話し、新天地での日々が癒しになっていることも明かした。
性格的には、「うまくいかないと重く受け止めすぎてしまう質」であり、「知らない人と一緒のときは静かにしている方」と本人は言う。ただ、それだけに一度和めば社交的だ。
「人生は難しいことばかりですから、ジョークを言って笑って過ごすのがいいですね。おしゃべりではないですけど、仲間とはよく話もします」。
気さくに話すパラスの雰囲気はとても温かで、旧知の友だちのような印象だ。それでいて、セレブファミリー育ちならではの品も確かにある。それがいろんなものが混ざった“ケソン気質”なのかもしれない。