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アルティーリ千葉

ALTIRI CHIBA

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ブランドン・アシュリーが育ったサンフランシスコ・ベイエリアのバスケットボールは、この地域をホームタウンとするゴールデンステイト・ウォリアーズと、ハイレベルなプレーヤーがしのぎを削るピックアップゲームのカルチャーの存在から、伝統的に逸材が生まれやすい環境が整っている。

アシュリー自身、「あのエリアにはタフネスという要素があり、僕もプレーグラウンドのカルチャーの中で腕を磨いた一人です」と話し、故郷の伝統が自身のキャリアの土台であることを明かしている。
名門アリゾナ大では、近年NBAで活躍しているプレーヤーとともにチームを全米の8強入りに導いただけではなく、所属のパシフィック12カンファレンスの王座をかけたトーナメントでMOP*に選出される栄誉も受けた。そんな彼が、日本でアルティーリ千葉が偉大なる歴史を創る意欲を持ってクラブを立ち上げたことを知る。その力になれる自信があった。それが今、ブラックネイビーを纏っている理由だ。

*=Most Outstanding Player。いわゆる最優秀選手賞

ジェイソン・キッドやゲイリー・ペイトン、デイミアン・リラードなど世界的に知られるNBAプレーヤーを生んだサンフランシスコとオークランドのベイエリアで、アシュリーが才能を開花させられた背景として、この地特有のカルチャーに加えてもう一つ、家族の絆や愛情があったことを見逃すことはできない。

実際、アシュリーが自身にとってのヒーローとして挙げるのは母親や親戚だ。「一番は母。叔父、従兄、姉もそうです。僕は家族からどうプレーしたらよいかを教えてもらったんです。母にはよく映像を見ながら教わったものです」

アシュリーの母は、ケガが原因でバスケットボールでのキャリアを断念した人物。姉もNCAAディビジョン1のサンノゼ州大に進み、「姉にはよくコート上で負かされていました」というが、大きなヒザのケガを4度経験し、キャリアを断念せざるを得なかった。

アシュリーの活躍には、そんなスポーツ一家の夢が重ねられていた側面があるのだ。それだけに、タフなストリートで道を誤らないように、大切に育てられたと言えるかもしれない。

2012年、アシュリーはNCAAの強豪アリゾナ大に進む。1年生時から主力に定着し、シーズンを締めくくるNCAAトーナメントで、スウィートシックスティーン(全米のベスト16)に駒を進めた。2年生時にはスターターとして欠かせない存在となり、チームの開幕21連勝と、全米ランキング1位奪取の力となった。

しかしこのシーズンの22試合目、アシュリーは悲劇に襲われてしまう。故郷のベイエリア地区にあるカリフォルニア大でのアウェーゲームで、右足の靭帯を断裂し、戦列を離れなければならなくなってしまったのだ。

母はもちろん、家族や親せき、友人一同が見守っていた。アシュリー自身のみならず、近親者も、大学の関係者やファンも、希望を見失うような出来事だった。アリゾナ大はこの試合でシーズン初の黒星を喫している。

後にNBAで活躍するプレーヤーが多数居たアリゾナ大が、この試合以降に総崩れになることはなく、エリートエイト(全米のベスト8)入りは果たしている。しかしアシュリーの離脱がなければもう一歩、二歩先まで行けた可能性は十分あっただろう。また、その後のアシュリー自身のキャリアも変わっていたかもしれない。「もしケガをしていなかったら、2年生を終えた時点でプロ入りしていたと思います」と本人も話している。その「プロ」とはNBAに他ならない。

負傷が癒えた翌シーズン、アシュリーは大学時代のキャリアハイとなる平均12.2得点、5.2リバウンドを記録し、チームのエリートエイト入りに貢献。有力なタレントがしのぎをけずるパシフィック12カンファレンスの王者を決めるポストシーズン・トーナメントではMVPにも輝いた。

「アリゾナ大にいるときには、個人の成功はチームの成功の上に成り立つということを学びました。最高のプレーヤーが最高でいられるためには、周囲に責任を分け合う有能な仲間が必要です。毎日練習で切磋琢磨できるような存在です。アリゾナ大が強いのはそういった要素があるからで、たいていの場合は試合よりも練習の方が厳しいんです」と大学時代を振り返る。

NBAで活躍する卒業生や、過去チーム活動に関わった重鎮が大学に訪れて学生に助言することも多かったという。特に、2008年まで25年間に渡り同大をけん引し、2020年に永眠したルート・オルソン元HCの助けはアシュリーにとって大きかったそうで、「オルソンさんは常に僕らと一緒にいてくれて、いろいろと教えてもらいました。ご冥福を祈っています」と話している。

2015年、3年生のシーズンを終えたアシュリーはプロ転向を決断。NBA Gリーグのテキサス・レジェンズで新たなキャリアをスタートさせる。その後はアメリカ、ヨーロッパ、オセアニアのクラブで7シーズンを過ごし、アルティーリ千葉に加わった。

その遠因には、ニュージーランド・ブレイカーズの一員だった3年前に、アンドレ・レマニスHC率いるブリスベン・ブレッツと対戦した経験があるという。「レマニスHCの存在は僕がここに来た理由の一つです。僕たちは3回対戦しましたが、毎回良い試合になってお互いに親しみを感じるようになったんです。彼のコーチングスタイルは僕のプレーに合うようにも思いました」

それだけでなく、B3から昇格直後の今シーズン、B1昇格を実現するというビジョンに力を貸してほしいというクラブからの期待の大きさが、アシュリーの来日とアルティーリ千葉入りの決定的な理由となった。「僕にはその挑戦に立ち向かえる自信がありました。しかも日本やBリーグについては、とてもいい評判を聞いていたので、ぜひこの新しい機会をモノにしたいと思ったんです」

日本に来たのはもちろん初めて。しかし「プロのアスリートは環境に適応していくのも仕事」と文化や言葉の違いを一切言い訳にはしない。「こんにちは」「どういたしまして」「ありがとう」といった片言の日本語はすでに習得済み。地元の千葉で居心地良く過ごせるスポットはまだ探索中とのことだが、千葉での生活は順調のようだ。

「ここにしかない文化があって気に入っています。良い人々に囲まれて、ここでの生活、食事や文化を楽しんでいますよ」

アルティーリ千葉だからこその特別なものは何かと尋ねると、「家族のように感じること」と答えた。11月27日までの日程を終えて、平均17.1得点と1.2ブロックがともにB2リーグ7位の好成績。サンフランシスコにいた頃と同じように、家族の存在がアシュリーの好調さにつながっているようだ。

「みんながそれぞれ、勝ちたいと思っているし、仲間の成功を願っています。仲間の活躍を心から喜べる環境が素晴らしいですね」。”チームとして成長し歴史を創る” これが日本で見つけた家族とともに、今アシュリーが取り組んでいる仕事だ。

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