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アルティーリ千葉

ALTIRI CHIBA

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特別に活発ではなく、昼休みに必ず外で遊ぶわけでもなかったという少年時代の小林大祐の話を聞くと、もしかしたら本来は学業で人生を切り開く方向にあったように感じられる。

「小学校では成績がオール5でなければバスケをさせてもらえなかったですから」。「人と同じになるな、安易に特待生で進学するな、高校受験くらい人の力を借りずに地力で乗り越えろ。両親からはそう言われていました」。当時を振り返る小林からはこんな言葉が飛んでくるのだ。

バスケットボールを始めたのは同級生から誘われたから。人生の決め手となったその同級生が現在3x3の3STORM HIROSHIMAに所属する阿刀秀嗣だった。阿刀の父親が名門福岡大学附属大濠高校のコーチだったために、小林は小学生時代から同高に“通う”ことに。

以来どの年代でも全国区のプレーヤーとして実績を積んできたが、特にプロとなってからは、独自性や負けん気、反骨心、両親から受け継いだ知性が小林を「昇格請負人」として活躍する助けとなっている。

小林が阿刀と出会ったのは長丘小学校の2年生だった頃。転校生だった阿刀は、クラスメイトの中で体格的に大きい方だった小林をバスケットボールの世界に引き込んだ。

「運動が得意でもないし、親から運動しろと言われたこともなかった」という小林だったが、阿刀に誘われてバスケットボールを始めてみると、早々に頭角を表して輝かしい戦績を積み上げている。

長丘小5年生だった1999年には、全国ミニバスで優勝(当時は4つのブロックそれぞれで優勝を決めるフォーマットだったので、正確には4つの優勝チームの一つ)。

長丘中学校に上がってからも、2年生時に九州大会を制して全中(全国中学校バスケットボール大会)に出場し、個人的にも同年度の県選抜メンバーの一員に名を連ねた。

「運動が苦手だったわけではなかったですけど、足が速いわけでもないですし、家族は全然スポーツをやっていません。亡くなった父が185cm程の長身だったくらいで、(小さかった頃は)スポーツにはほとんどかかわりはなかったんです」。

本人はそう言うが、足跡をたどればトップアスリートの卵のようだ。理由は「たまたま環境が良かったから」。さらりとそう話す。

その「環境」が、幼少期から大濠に通っていた事実を指しているのは言うまでもない。小林はそこで、同級生阿刀の父親である阿刀高嗣コーチからハイレベルな指導を受け続けることができた。

「小中高とずっと大濠の練習メニューです。小学校から大濠に連れていかれるのは、僕はいやでしたけど(笑)」。小林は冗談めかしてこう話す。

進学した高校はもちろん大濠であり、小林は阿刀のほか現在同校の監督を務める片峯聡太とも同級生としてプレーしている。日本一こそなかったが、1年生だった2003年にインターハイとウインターカップ準優勝を経験。
2005年には千葉を舞台に開催された千葉きらめき総体で、最上級生としてチームを準優勝に導いた。

その後進んだ慶應義塾大学は、小林が入学する2年前の2004年に志村雄彦(現株式会社仙台89ERS代表取締役社長)、石田剛規(現B3の横浜エクセレンスHC)、竹内公輔(現宇都宮ブレックス)らを擁して45年ぶりのインカレ制覇を成し遂げていた。
そこで小林は1年生からロスターに名を連ね、慶全盛を誇った時期の中心的プレーヤーの一人となる。

当時の佐々木三男HCからも、「君らは人と同じではいけない」と両親の教えにも通じる言葉をかけられた。世界を動かしていく若者なんだから、良い意味でのプライドを持つようにと諭されて過ごした4年間、小林はインカレ優勝1回(3年生時)・準優勝2回(1年生、4年生時)を成し遂げ、優勝した3年生時の大会では優秀選手賞を、準優勝の最終学年では敢闘賞とMIPに輝いている。

学生時代に華々しい実績を残した小林は、2010年にJBL時代の日立サンロッカーズ(現サンロッカーズ渋谷)に加わり、そのシーズンのルーキーオブザイヤーを受賞。
以降2013-14シーズンまで日立、続いてリンク栃木ブレックス(2014~2016年、現宇都宮ブレックス)、ライジングゼファー福岡(2016~19年)、茨城ロボッツ(2020-21シーズン)、そしてアルティーリ千葉へとキャリアを積み重ねてきた。

この中で、故郷福岡に戻った2016年の移籍が一つの転機だった。「バスケットボールをしていて最もうれしかったことは何か」という問いかけに対する答えの中で、小林は以下のように話している。

「どちらかというと人と違う道をやるというのが信条だったので、栃木から当時B3の福岡を選んだことが、僕としてはターニングポイントだったかなと。B1でずっとプレーするというのもあったかもしれません。でも反骨心から、あえて誰もが行きたがるところに行く必要はないんじゃないかと思いました。逆の選択でも成功していたかもしれないですが、いばらの道を選んでこれまで結果を残し続けてきているので、それは良かったなと思えます」

リスクを取ってでも挑戦すべきと捉えて福岡に戻った小林は、チームが2シーズンでB3からB1に昇格する原動力となり、その翌シーズンにも移籍先の茨城がB1昇格を実現する過程を力強く後押しする。

アルティーリ千葉入りした昨シーズン、B3からB2への昇格の大きな助けとなったのはご存知のとおりだ。「人と同じになるな」、「安易に人の力を借りずに地力で乗り越えろ」。

そんな生き方だからこそ、心底信じられる人と一緒に歩みたいという思いもある。
「僕は人に感化されやすいタイプです。利益やお金ということよりも、どんな人とやるか。B1ですごいオファーか、B3でそれほどでもないオファーか。やる人によっては、僕はB3を選びます」。

アルティーリ千葉入りにもつながる考え方だ。「やっぱりやっていて面白いし、高額サラリーがハッピーだとは限りません。自分が成長できる場に行く方が、毎日がハッピーじゃないですか。そんな考えです」

苦労が多くても最大限の努力とともに輝ける場所を目指す生き方は、東京2020オリンピックの3x3日本代表選考へのチャレンジにも、その当時から取り組んできた大学院での学業の取り組み(この4月に卒業してMBAを取得)にも投影されている。
その先に、「自分のやってきたことの恩返しを何かの形でやっていきたい」という思いもあると小林は話す。

「福岡に戻ってB1に上げなきゃというのもそうでした。慶應に対しても同じで、博士課程を取って何らかの授業を持ちたいという思いがあります。バスケ界には、キャリア形成方面のロールモデルのようなことができたら…」。多才な小林ならではの将来構想だ。

ただし、まれにみる大激戦を戦っている今は、アルティーリ千葉をB2王座とB1昇格に導くのが先決事項。
「福岡と茨城ではとんとん拍子に昇格できましたが、今年が一番難しいシーズンだと思っています。勝率、昇格率を1%でも上げられるように、ライバルとの直接対決でも勝ち切らないと。相当気合を入れなければ」。

いよいよシーズンも終盤。小林の反骨心が熱く燃え盛っている。

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