アンドレ・レマニスHCは、第二次世界大戦後にラトビアからオーストラリアに移住した努力家の両親の間に生まれた。ソビエト社会主義共和国連邦のラトビア進軍を契機に祖国を離れ、終戦後にメルボルンの移民キャンプに到着した頃はまだ10代。
そこから始まったレマニス家の生活は決して裕福ではなかったが、両親はアンドレと4歳年上の兄の二人を安全に育て上げ、ラトビア語の学校にも通わせた。
Andrejのスペルからも感じられるように、家族にはラトビアの伝統が今も残る。ラトビア語も「話すとなると日本語よりもほんのちょっとうまいくらい」と謙遜するが、話されている内容は理解できるという。
父親がジュニアバスケットボールクラブのコーチだったことから、自身も6歳の頃にはバスケットボールに親しむようになった。プレーヤーとしてのプロキャリアもあるが、早々にコーチとしての才能を見出され20代半ばで転身。2010年代半ば以降はワールドクラスの実績を残している。
レマニスが生まれ育ったメルボルンは移民の多い大都市で、様々なスポーツが盛んに行われていた。人気が高かったのはサッカーとクリケット。それでもレマニスがバスケットボールを選んだのは、父親がラトビアで大人気だったバスケットボールの楽しさをコミュニティーに伝えようとしていたことに起因している。
父親は自分自身も大人同士でプレーし、週末には我が子を含む地域の子どもたちのコーチ役を買って出た。「先に父から習っていた兄の様子を見ているうちに、私も興味を引かれたんです」。
レマニスがバスケットボールに関わっていることは、それ自体がラトビアのルーツを受け継いだことを意味しているのだ。
レマニスが生まれた頃、両親は英語圏で暮らす子どもたちの将来を考えてそれまでのラトビア語中心の生活を英語中心に切り替える決断をした。そのため兄は英語で苦労し、次男のアンドレは逆にラトビア語習得に苦労するという移民の家系ならではの経験もしている。
しかし幼少期にはラトビアの祝日に行われる催しに家族で参加するなど、いずれにしてもラトビアのルーツを身近に感じる日常があった。
最近ラトビアのバスケットボール連盟がレマニスの実績に着目し、オーストラリアのラトビア人コミュニティーに紹介するという出来事もあり、あらためてルーツとの関係性は近しくなっているのだという。
成長したレマニスはオーストラリアのトップリーグ・NBLでプレーし、1992年にサウスイーストメルボルン・マジックのガードとしてリーグ制覇を経験した。しかし、まだ20代半ばだった翌93年には現役生活を終えている。
理由の一つは望むような出場機会を得られなかったことだったが、それ以上に大きかったのは当時のヘッドコーチ、ブライアン・ゴージャンの「君はコーチとして有望だと思う。やる気があったら力になるぞ」という期待と激励の言葉だった。前年王座を獲得し、リーグの最優秀コーチ賞を受賞した人物から肩を押されたレマニスは、コーチングへの転向を決めた。
ゴージャンは東京2020オリンピックでオーストラリア代表を母国初のメダル獲得(銅メダル)に率いた指揮官で、同国史上最高のコーチの一人と認められている存在だ。
その眼鏡にかなう人材だったレマニスは、母国代表HCとしてリオ2016オリンピックとワールドカップ2019でベスト4進出という、その時点における同国史上最高の成績を残し世界的な名声を手にした。ともに偉大な功績を残した両者が、プレーヤーとコーチの立場でつながりを持っていた事実も興味深い。
これまでのコーチングキャリアで、レマニスはゴージャンのほかにも多くの人々から様々な助けや学びを得てきた。レマニスに初めてプロとしてアシスタントの機会を提供したイアン・スタッカーや、マイケル・ジョーダンのチームメイトとしてNBAのシカゴ・ブルズで活躍した経験や知識をレマニスの代表活動にもたらしたルーク・ロングリーなど、影響を受けた人物を尋ねるとオーストラリアの偉人の名が次々と挙がる。
しかしレマニスの学びは過去のものとして終わっていない。「誰もが異なる経験や知識を持っているので、常に立ち止まらずあらゆる人から学ぶことが大事」と話し、現在も学びに対する強い意欲を持っている。
多くの出会いによりレマニスは「考える人(thinker)」であり続けることができるという。
「何ごとも情報を吸収して決断を急がず、平穏で公平な心を持って考えるよう心掛けています。チームの中では、誰しも自分の意見を聞いてほしいし、信じてもらいたいものですよね。それぞれの異なる経験と知識はどれも良いチーム作りの要素。コーチだからと威張るのではなく、皆の意見を生かすことが成功につながると思っています」。
代表活動での成功や、ニュージーランド・ブレイカーズで成し遂げたNBL3連覇(2011-13)などの実績を見れば、このアプローチがレマニスにとって正しかったことは自明だ。
日本にやってきた理由は、そんな自身の考えとアルティーリ千葉のビジョンやアプローチが合致していたからだ。
「一人で引っ張るのではなく皆の意見を聞きながら前進しようというYoshi(株式会社アルティーリCEOの新居佳英)の考えに共感し、一緒にやる価値があると思いました」
来日後のレマニスはクラブやファンの期待に結果で応え続けている。その中でも特に、千葉ポートアリーナで2シーズンを通じてわずか3度しか負けていない事実(2023年1月末時点)は、レマニスがクラブだけでなく千葉という地域に溶け込んでいることの象徴だ。
このアリーナはレマニスにとって、母国代表を率いて来日した2018年に、日本代表を相手に黒星を喫した苦い思い出の地だった。しかし今では、「まさしく我が家のようです。会場入りするときはいつも良い感覚があるし、接戦の大事なところでファンの応援が背中を押して、プレーヤーがあと一歩前に行ける、ほんの一瞬速くルーズボールに手を出せる、そんな場所です」と話すほど、強い愛着を感じる場所に変わった。
この先、山もあれば谷もあるだろう。それでもファンの応援をチームの力にして立ち止まらず突き進む。千葉にやってきた世界的名将レマニスはそれができる男だ。